ふるさと茨木連帯

 

はじめに

まちづくりといいますが、まちは既にあります。現存しています。何をつくるのでしょうか? 大抵は活性化が目標とされ、人づくりとか、コミュニティづくりとか、挨拶とか、ガンバのサッカー場などの施設開発や循環バスなどのシステム開発、あるいは観光・祭りなどのイベント企画のことをいうようです。

まちというのはつくるというよりも、「深耕する」ものだと思います。なぜ、ここにまちをつくったのか、最初にまちをつくった先達の思いがあります。それをまず深耕することです。旧石器時代にできたのか、縄文時代だったのか、それとももっと後の時代なのか、必ずここにまちをつくった先達の思いの原点があります。そしてその後の展開があります。そういうものが結節して「まちの原型」ができた筈です。それを深耕せずにまちを語っていいのでしょうか?

まちの原型がわかると、それは活性化という目標にはならない筈です。何故なら、まちはそこに住む人々の生活の拠点だからです。便利にしたり、効率化したり、賑わいを演出したり、人を集めたりすることが最初にあったわけではないのです。最初にあったのは生活そのものです。自然に沿った、役割の見える共同体があったのです。そこでの生活は交感神経ではなく、副交感神経主導です。ゆったりしていて、ゆるやかなふれあいがあって、落ち着いて生きていける状況が大切だからです。まちは活性化ではなく、鎮静化が目標になると思います。

人間は自然と共同体によって生かされてきました。今、この二つとも消えてしまいました。頼るものがなくなって剥き出しの個だけになっています。煩わしさはあっても、それに勝る生活の律がありました。それぞれの家に何らかの自給自足があり、その過不足を補う贈答があり、自分の役割が見える集落や村や地域という共同体がありました。

まちの深耕とは、まちの原型から出発して、役割の見える共同体を再構成することだと思います。ですから、生活している身近な規模での自給自足や協同仕事や助け合いを仕組むことなのです。

茨木というまちを、歴史の時代区分や政治・経済・文化などの個別領域でみるのではなく、全体的で循環的な視点から深耕すると、まちの存在理由がみえてきます。どうして茨木がまちになったのかがわかります。

われわれはこの本を茨木の原型を探るために編集しました。そういう視点で深耕すると、茨木には少なくとも6つのまちの原型があります。本文をお読みいただければわかりますが、最初に要約をしておきたいと思います。


1:生活適地
茨木には5ケ所に縄文遺跡があります。今から1万年以上も前に人が住んでいたのです。縄文人は自然採取の生活をしながら定住していました。自然採取で定住ができたということは余程の条件が揃っていないと無理です。水がいいこと、食糧にできる植物や魚介類が豊富なこと、特に魚介類については今から7,OOO年前には阪急茨木市駅あたりまでが海でした。そして食ベ物を煮炊きする土器づくりのための土がいいことです。さらに、神武東征の終着点茨木は米の名産地となり、そのための道具を作る銅や鉄も揃っていました。

2:庶民の聖地・直観を育む大地
茨木には信長が最もてこずった一向宗の信徒がたくさんいました。彼らは1542年石山本願寺へ参戦しています。さらに、高槻領だった茨木の山間部には、高山右近の布教によって、キリスト教の洗礼を受けた信者が2,400人もいました。そして、茨木は神社仏閣の数が非常に多いのです。自治体平均と比較して、神社が2.7倍、寺が4.9倍もあります。これは目にみえないもの、形のないものを大切にする人々が住みついていたということです。そういう背景があるからこそ茨木から並外れた国際的な芸術家が輩出しているのでしょう。

3:流通拠点
茨木には15の河川があり、その内11が1級河川です。18の街道が通っています。現在も高速道路・国道171号・JR・阪急と道路網は密です。昔から水路も陸路も至便でした。大阪湾から神崎川・安威川を遡って寒天加工の海藻や鯖が茨木へ運ばれていました。また、同じ水路で大阪から茨木の仏照寺へ浄土真宗の信徒が参詣していました。江戸時代の参勤交代の駅であった椿の本陣は今でも歴史的建物として残っています。

4:惰報拠点
米普及の道といわれる神武東征の終着地としての茨木、藤原の鎌足が蘇我氏討伐と大化の改新の秘策を練る拠点とした茨木は、ここが情報拠点であることを示しています。茨木城主・中川清秀は秀吉に本能寺・光秀の謀反を急報します。秀吉は清秀が本能寺の現場にいなかったことを見透かし、「信長親子は存命」という嘘の返書をしたため、清秀が明智につくのを防ぎ、備中高松城から光秀追討に馳せ参じ、そしてこれが天下取りに直結します。京都を押さえるには茨木が要だったのです。
徳川家康が豊臣秀頼に命じた京都方廣寺の再建で、秀頼の後見人である茨木城主・片桐且元は家康が言いがかりをつけた「君臣豊楽、国家安康」なる鐘銘の釈明に赴きますが、家康から、「秀頼人質・淀君人質・大坂城開城国替」の三択を迫られます。淀君は大野治長の母を使者に立てますが、治長は且元を裏切り者扱いします。且元は冷静に茨木城に篭ります。豊臣と徳川の交渉は頓挫します。これがきっかけとなり、大坂冬・夏の陣が始まります。且元は徳川に組みして勝ち組みになります。徳川300年の端緒が茨木だったことになります。

5:先駆の条里制
条里制というのは古代から中世にかけての農地の区画制度です。1町=60歩(109m)四方が坪または坊と呼ばれて基本の単位でした。この1町で農地を区分しました。1町は10等分され、そのひとつを1段といいました。さらに、6町四方の正方形を「里」と呼び、里の横列を条、縦列を里と呼びました。これを地割といい、管理区画とし、条理呼称として使いました。条と里で位置が特定できるからです。
地割には正方形と長方形があります。茨木は北が山地で南が平野ですが、山地は棚田になっていて変形が多いので正方形の地割が難しく、長方形の地割でないと不都合でした。この茨木で長方形の地割が最も早<奈良時代の中期に開発されました。
班田収受法は奈良時代初期ですが、当初は条里制がありませんでした。奈良時代中期になって初めて、男2段・女1段20歩の終身用益口分田に、この条里制が利用されました。そしてこれは田畑永代売買禁止令に引き継がれます。田分者という言葉もここから生まれています。
茨木は食と農地を非常に大切にする風土を早くからもっていた土地なのです。

6:町民自治
茨木は城下町といわれますが、城があったのは280年間だけです。また、在郷町ともいわれますが、これは農村部にできた商業集落を意味します。これも違います。茨木は基本的に門前町です。神社と寺が飛びぬけて多く、神社仏閣ができて、そこへ商家が集まり、そのまわりに町屋ができたというのが本当の姿です。門前町は元来町民主導です。茨木は名水・名泉のまちですが、これが元井戸になって孟宗竹で竹管をつくり、町屋に上水道がつながっていました。町屋の上水道は日本では稀です。竹管を定期的に清掃するために井戸仲間ができ、これが町民自治の先駆けとなります。これが江戸期から昭和30(1955)年まで続いていました。そこには自給自足があり、それを補完する贈答があり、そして助け合いが行われた地域共同体がしっかり機能していました。茨木は地域共同体をもとにして、町民自治を育む土地柄なのです。


各テーマの展開構成案

「茨木」という地名
エントリー:佐藤

1、 地名の変遷
2、 それぞれの地名のいわれ
3、 いわれの根拠・・・地勢、人物、歴史的事項など


茨木は生活適地
エントリー:山本、三村、福丸、佐藤

1、 旧石器時代の遺跡
2、 縄文時代の遺跡・・・遺跡が物語る意味
3、 気候
4、 名水
5、 土壌
6、 地元の産品(後に米と地酒が名産品となる)、調達していた産品(神崎川〜安威川水路で調達した寒天・鯖など)
7、 米の道といわれる神武東征の終着地茨木
8、銅と鉄と産鉄の民
  ・・・茨木童子、大枝・酒呑童子、五十鈴媛
9、農聖・小西篤好「農業余話」の実績と貢献


庶民の聖地・直観を育むまち茨木
エントリー:山本、佐藤賢治、茨高、佐藤

1、 神社・仏閣の分布・・・茨木にはどれくらいあるのか
2、 神社・仏閣の要件・・・なぜ茨木には多いのか
3、 一向宗が茨木に根付いたわけ
4、 キリシタンが茨木に根付いたわけ
5、茨木に大坂や大和の信徒が多いわけ
   (浄土真宗・仏照寺など)
6、 茨木の信仰風土
7、 信仰と芸術のかかわり
8、 茨木の芸術家たち


流通拠点としての茨木
エントリー:京谷

1、 15の河川・・・生活用水、農業用水、搬送水路、
   参詣水路
2、 18の街道・・・交通、搬送、参詣
3、 道路網
4、 日本における茨木の位置づけ


茨木の情報拠点としての位置
エントリー:青山

1、 神武東征の終着地=茨木
2、 藤原鎌足の拠点=茨木
3、 本能寺の変で茨木城主中川清秀が果たした役割
4、 大坂冬・夏の陣で茨木城主片桐且元が果たした役割


先駆の条理制を開発した茨木
エントリー:赤松

1、 日本の農地区画の歴史
2、 班田収受法(奈良時代初期)
3、 条理制(奈良時代中期)
4、 田畑永代売買禁止令
5、 食と農を大切にする茨木の今昔・・・権内水路など


町民自治のまち茨木
エントリー:大野

1、 門前町としての茨木が町民主導の基盤になった
2、 竹管水道の井戸仲間が町民自治を育んだ
3、 村掟・村定などの共同体の規律
4、 茨木の地域共同体・その今昔
● 垣内(カイチ)=10〜20軒の近隣組織、当屋(トウヤ)=当番、イットウ=一族郎党・先祖を同じくする家、イッケ=つきあいの深い家など
● 今も濃密な関係を維持している茨木の地域共同体(事例収集)

 

ふるさと茨木連帯と最初の出版活動


ふるさと茨木連帯は、茨木の市民活動グループの横のつながりで、「お互いに協力できることをしよう」、「みんなでできることがあればもっといいね」、というゆるやかな互恵組織である。
99年6月に茨木未来倶楽部が呼びかけ、10月2日に最初の集いを持った。その日一同に会したのは、(財)MOA・市民文化の会・山彦クラブ・参玄会・まちづくりネットワーク・水と緑と人の調和を考える会・元茨木川のめだか・(社)慶徳会・自然保護研究会・未来倶楽部の10グループだった。ほかに欠席だけれども賛同していただいたグループが大正琴花林会・子供とおとなのための読み語りの会の2グループあった。
2002年10月、グループはケナフの会・アロアロ・バリアフリーコンサート企画・パソコンクラブ・虹の会・ユース100実行委員会・市民文化フオーラム・やまもも・健康道場擢康友和協会を含めて21になっている。
まあ、やってみようということで動き始めた。最初に、公共の施設を市民活動の連合団体に開放し、市民団体連絡会を開設するよう市に要望した。これはみんな個別対応が原則故ダメという回答だった。
次は、やはり市に、市民活動支援センターの設置と、いわゆる市民活動の連合体の対応窓口の明示を要望した。これも却下された。
さらに、しつこく「市民参加型の環境とまちづ<りを老える」シンポジユームを市とわれわれで共同開催しようともちかけた。これも勝手にやれと拒否された。
それでも2002年6月3日に、市主催の「環境フェア」で、市の一担当者の熱意でふるさと茨木連帯と環境保全課の共催が実現した。さらに・10月28日には、同じ共催関係で、落語と講演の会を催した。落語家の露の団四郎を呼び、滋賀県立大学の土屋正治教授を呼んだ。
この間に、ふるさと茨木連帯と市の助役を交えた懇談会を行い、それが発展して不定期ながら市との「連絡会」もおこなわれるようになった。最初、企画部と、組織が変わって市民活動推進課と連絡会がおこなわれた。
2001年10月には、それまでの6回は茨木未来倶楽部が実施していた「茨木市民博覧会」をふるさと茨木連帯が引き継いだ。この7回目の市民博はふるさと茨木連帯で市の後援を獲得した。2002年の第8回もふるさと茨木連帯が推進している。
2002年は、ふるさと茨木連帯の共同企画として、「ふるさと茨木再発見ツアー」を行った。午前の徒歩コースは27名の参加だったが、午後の自転車コースは雨で中止となった。
そして、何よりも、この本・「ふるさと茨木探検ガイド」が、2002年の共同企画である。2月から毎月編集会議を開き、各グループからかってでた編集委員が取材し、見聞して、レポートをまとめ、1年がかりで原稿を書いた。同時に、予約出版という新しい試みで本が出来る前からインターネットやチラシで出版協力者を集めた。3000冊の予約が取れればタダで出版できるという本だった。何とか本が出た。素晴らしい。お金がなくてもとんでもないことができる、いい見本だ! みんな、「楽しかった」「いい出会いがあり、とても勉強できた」と手放しで喜んでいる。よかった、よかった!

こうして出来た本が「ふるさと茨木探検ガイド」ですが、この本は、大阪府環境賞奨励賞を頂きました。市民が自分の住んでいる地域を見直すことは環境保護につながるという理由からでした。出版後、反響が大きく、ついに第2弾として、この「茨木がまちになった6つのものがたり」が企画されることになったのです。


ふるさと茨木連帯代表者のプロフィール /佐藤眞生


1939年朝鮮生まれ。マオリ族に心酔する父がマオと命名。
釜山から貨物船で舞鶴へ上陸、新潟へ帰還。サツマイモの蔓を食べて育つ。
中高時代、柔道とテニスと山岳に没頭。山で先輩の遭難死に触れ、禁断の枯れ沢にテントを張り鉄砲水の遭難を体験、それでも山岳競技で国体に参加。
中学3年、未川博先生の「自由な私学」のラジオ講話を聞き立命館大学を専願。学生運動に没頭、「就職がないなら自分で職場を作れ」という末川博先生の助言でマーケティングの調査・企画・計画推進の最前線に身をお<。
現在、縄文魂に立ち返る自然維持活動、未来世代に誇れるまちをつなぐ市民活動。
茨木に芸術村をつ<る運動「芸術の森つくろう連」を主宰。

茨木がまちになった6つのものがたり 募集要領
販売価格
1,260円(予定)
体  裁
A5判 並装 全カラー(予定)
発行日
発売中!