国立大分医科大学名誉教授

宮田 彬
 

本を開けば、ヘ〜ッて感心することばっかり!「自然観察」こそ、ホンモノの大人の楽しみです。

 [出版の意図]

日本には花鳥風月を愛でる大人が楽しむ自然観察の伝統があった。壇ノ浦で滅亡した平家の紋章は翅を立てて花を吸密するアゲハチョウ(揚羽蝶)を描いている。平安時代の貴族はこんな優れた観察眼をもっていた。しかし、その伝統はいつの間にか虚飾に流れ、絢爛豪華な花鳥絵に発展し、科学的精神を育むことはなかった。

明治以来、ファーブル昆虫記は何度も日本語に訳され、今も幾通りもの版が市販されている。そのうち、何冊かは子供向きに書き直されたものだ。日本にもファーブルのように昆虫の生態を研究した人は沢山おり、中には一般向きの優れた観察記録を発表している人もいるが、大人の間でベストセラーになったという話は聞いたことがない。

いつの間にか自然観察は子供にやらせること、昆虫の本は子供の理科教育の副読本として推奨するべきものだと考えられるようになってしまった。

大分合同新聞に「九重昆虫記」を連載し始めた動機は、自然観察の面白さを同世代の大人に知ってもらおうと思ったからだ。自然観察は、ただ漫然と眺めるのではなく、(1)立ち止まり時間をかけて観察し、(2)深く思索し、(3)文章として記録し、(4)論文として発表するという四つの段階がある。このすべてをクリアするには観察を持続する強い精神力と、真理を見抜く鋭い観察眼、そして人並み優れた思考力が必要である。

自然観察は企業戦士として世界各地で活躍した優れた大人が老後の余暇を楽しむ、高級な知的遊びとして最適である。

「九重昆虫記 第1巻」は自然観察を趣味とする大人をもっと増やそうという願いを籠めて執筆した


 [目次とあらすじ]


第1部
九重山系・大分県九重町地蔵原の私設九重自然史研究所における過去5年間の昆虫の生態観察と、半世紀に及ぶ国内や熱帯地における昆虫の研究を収録。2004年6月以降61回に及ぶ大分合同新聞・月曜夕刊・科学欄に掲載された記事である。例えば、次のとおりである。

兄弟仲の良い虫と悪い虫、ベニモントガラ幼虫の群にリーダー?、昆虫の求愛行動、美しい世界の起源、チョウは浮気をするか?、譲れない雌上位、昼行性と夜行性、昆虫にも心がある、鳥はスズメバチより賢いか?、本物の目はどこにある、知能と本能、寝込みを襲われたチョウ……。


第2部
著者は日本の偶産蛾研究の第一人者であるが、この20年間に採集した偶産蛾の記録の総括が物語として展開されている。

近年、温暖化の影響か、日本各地で熱帯系の蛾が著しく増えている。その一部は二次発生し、害虫化するものも出ている。この状態が続けば、日本の昆虫相はやがて亜熱帯化し、さらに熱帯化すると著者は警告を発している。内容の一部を紹介しよう。

熱帯への憧れ、偶産蛾とは、偶産蛾と地球温暖化、偶産蛾を運んでくる気象要因、二次発生した偶産蛾、アオマツムシの侵入、米軍と一緒にやってきたアメリカシロヒトリ、ゴルフブームに便乗したシバツトガ、クロメンガタスズメが増えている?……。


 [本文の一部]

 

◇「白昼の強盗事件」

白昼、九重町地蔵原のメーンストリートで起こった強盗事件の話をしよう。もちろん事件といっても虫の話だ。

ベッコウバチ科は黄と黒の横縞(よこじま)模様を持たないクモの狩人だ。彼らの狩りや巣造りはファーブル昆虫記に詳しい。雌は地面に穴を堀り、巣を作ってからクモを狩りに出かけ、麻酔した獲物を巣に運ぶ。

地蔵原で2005年8月11日正午ごろ、オオモンクロベッコウ2頭が1頭のクモを奪い合っているのを撃した。ベッコウバチがクモを引っ張って道路を横断中に、同種の別の個体がこのクモを奪おうとしたらしい。つまり強盗事件だ。

クモの所有者が少し優勢で目的の方向へ引っ張るが、強盗がいどみかかって引き戻す。争いは激しく、2頭のハチとクモが丸い1塊となって転げ回る。所有者は決してクモをは放さなさないが、 強盗は、時々、離れて一呼吸する。その間に所有者はクモを引っ張る。

数回激しい格闘を繰り返した後、強盗が離れて一呼吸した瞬間、所有者がクモを抱えて道路脇の 溝に飛び込んだ。獲物を見失った強盗は、最後に格闘した場所を中心に小さな円を描くように 低く飛んだ。

この探索の仕方から考えると、ハチはそんなに広い範囲が見えないようだ。一回りするとまた その真ん中に戻った。獲物が見つからないので少しずつ円の大きさを広げ旋回した。そして、 時々、思い出したように最後に獲物を見た円を中心に戻り、また旋回した。そして所有者とクモが 消えた溝を見つけ飛び込んだが、獲物はとうとう見つからなかった。

ベッコウバチが最後に獲物を見た場所を中心に円を描き、その円を次第に拡大しながら旋回する 探索方法は、ハチ研究者の間では常識かもしれないが、私は初めて知った。

20年前、私はドイツのある町に到着し駅の案内所で木賃宿を見つけ、タクシーでそこに行き荷物 を残し外出した。そしてあちこち散策するうちに宿の所在が分からなくなった。宿の名前も通りの 名前も覚えていなかった。さあ、あなたならどうする?

その町では中心地から出て行く道が何本も放射状に延びている。その道と交差する通りは円周状で どの方向に歩いても元の所に戻れる。そこで中心地から徐々に円を広げて歩き宿を発見した。私が 知恵を絞って発見した探索方法をベッコウバチは生まれながらに知っていた。

 

- オオモンクロベッコウとクモ3態(九重町地蔵原で撮影) -


 [著者略歴]

宮田 彬

1937年東京生まれ。

滋賀県立彦根東高校、国立奈良学芸大学(現奈良教育大学)卒業。

私立東大寺学園中学・高等学校教諭、国立長崎大学熱帯医学研究所助手、国立大分医科大学(現大分大学医学部)助教授・教授を経て、現在、国立大分医科大学名誉教授。

専攻は、昆虫学、寄生原生動物学。

著書:「対馬の生物」編著(1976年・長崎県生物学会編)、「寄生原生動物」上下(1979年・文部省刊行会)、「蛾類生態便覧―環境指標としての蛾類」上下(1983年・昭和堂)、「シンジュキノカワガ」(1986年・文一総合出版)、「マレー諸島」ウォレス著・翻訳解説(1991年・思索社)、「朝日百科動物たちの地球」共著(1992年・朝日新聞社)、「日本動物大百科9」共著(1997年・平凡社)。